
よく、大阪の人たちを好意的に笑い話にするときに話題になる、大阪言葉。その中で、何年か前に全国的に流行って、皆さんもよくご存知の大阪人の一言が、今の情報時代を颯爽と生き抜くための強力な知恵として使えるかもしれません。
次の会話や話を聞いて下さい。
「あいつ、この頃、どないしてんねん?」
「なんや、落ち込んどるらしいで。知らんけどな!」
「週刊 xx によると、タレントの A な、**してるらしいで。知らんけど!」
これらの、文末の、「知らんけど!」。これは、大阪人の私から言っても、今でもよく使う、どちらかというと、自動的につけてしまう、文末の一言です。
大阪人の会話の中の「知らんけど!」という一言は、話している人が情報に確信が持てないけど、興味ある、あるいは、どうでも良い話題として、断定を避けて、責任を回避したりする、自己弁護=自分中心的な態度として受け取られることも多いのですが、会話全体を軽い調子にして、場を和やかにしたりして、会話をスムーズにする力がある、とも認識されています。「知らんけど!」は、「人と人との関係が大切」というマインドが中心にあり、これが大阪マインドだろう、と言うことです。
しかし、同時に、実際は、この一言が、それに先立つ文、つまり、「情報」、に関して、自分は内容を確かめてその真偽を知っとるわけやないで!ほんとかどうか知りたかったら、自分で確かめや!というシビアで大切なメッセージが込められている点が重要だと思います。
これは、現代の情報社会、まるで、情報が最初から真実であるかのように伝えられ、溢れかえっている、表層的で喧騒な世界の中でも、真実とは何であるかをしっかりと捉えながら、健全に、健康に、生き抜いていく、大阪人が提供する、非常に洗練された、人生の知恵、会話の中に埋め込まれ、習慣化した、大阪文化の真髄の一つと言えるものに違いないと思うのです。
では、なぜ、殊更に、この大阪言葉が今の世の中に、大きな意味を持つのでしょうか?
明治維新の激動に続く、自由な気風にあふれた大正から昭和の初期にかけて、上方の落語や漫才が、その話芸の必要上と、上方特有の気風から、
「…ちゅう話や」
「…らしいで」
「…とか言うてるわ」
という、テンポの速い短い一言表現が生まれました。
これらの表現は、寄席や演芸場での話し手と聞き手である観客という互いの距離が近い間に、笑いのうちに瞬間的な共感を呼び起こす力を持った、短い一言だということです。
その後、第二次世界大戦を頂点とする戦争の時代を経て、昭和の敗戦、終戦を迎えます。
ここで、再び、上方漫才や人々の日常会話で、
「〜やで。知らんけど!」
という文末独立型・後置型のフレーズが現れ、定着していきました。
この「知らんけど!」は、それまでの、文中の一部としての「…らしいで」が持つ笑いと共感の力を維持しつつ、それらとは異なって、完全に独立して、それだけで成立している一文、一言です。
これは、どのような内容を持つ情報に対しても、話し手がそれをそのまま提示し、しかしその話し手の責任は明確に放棄し、先に述べたように、情報の真実性に関する重要なメッセージを込めて、聞き手にその受け取り方を委ね、同時に、話し手と、聞き手の間に、笑いと明るい場を生む、という強いコミュニケーション・ツールを生み出しました。これが、戦後の大阪文化の中で強く支持され、現在においてもそうです。
この表現方法が、第2次大戦後に現れ、大阪の大衆の中で見事に定着したことは、重要な意味を含んでいます。
それは、まず第一に、明確に、第2次世界大戦に至る戦争への反省と自覚として、情報とその確認、および、その社会における重要な機能に関する、庶民の、真摯なマインドとして、圧倒的支持のもと、特に大阪人に受け入れられたことを語っています。
さらに、このマインドが、大阪のお笑いマインドとして、子どもの頃から、徹底的に定着し、大阪人の心の底に生きていること、そして、その笑いが、今や、全国規模に拡大していることは、非常に意義深いと思います。
この大阪人の態度は、現代の混乱した情報社会において、有効に働く気がします。
戦前、戦中は、大本営発表をはじめ、国を挙げての、その内容の真実性が問われない一方的で、断定的な情報が大量に人々に送られ、共有されていました。戦後は一変して、民主主義の表現の自由のもと、社会では、検証可能な情報が発信され、共有されてきました。ところが、インターネットによるコミュニケーション革命によって、この戦前、戦中の情報状況が、現在のネットを中心とした過剰な情報状況として、再び戻ってきてしまったように見えます。この両者は、本質的に非常に似ているところがあります。その、断言され、正しさとして発信、拡散され、多様なように見えて、統一された紋切り型の情報形態がそれです。人々は、容易に、この情報を真実と捉え、衝動的に反応しがちです。
これに対して、真面目な取り組みは、情報リテラシーを情報の受け手に要求しています。皆さん、情報を鵜呑みにしないで、情報に対するリテラシーをしっかりと身につけましょう、と。それはもっともなことなのですが、なかなか、非常に、難しいことです。効率第一で、信じられないスピード感を持って、溢れかえる膨大な情報の中で、いちいちリテラシーを持って接することは、到底できないことでしょう。
そこで、こうしてはどうでしょうか?
さまざまな情報に接し、それを見たり、聞いたり、読んだり、した直後に、そっと、その映像や、音声や、文章の最後に、「知らんけど!」を、付け加えるのです。
そうした途端、その映像も、音声も、文章も、軽く、そんなもんか、作者も「知らんけど!」いうとるぐらいやからな、と、笑いのうちに、姿を変えるでしょう。
これが、膨大な情報によって、わたしたちが迷子になってしまわないように社会を沈静化し、健全に生き抜く、最も簡単な方法です。そして、その後で、ちゃんと自分で確かめや!というシビアなメッセージを、明るく笑いのうちに受け止めるのです。


