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青栁幸利氏へのインタビュー -その2- 研究遍歴

青柳幸利氏 (AY)

未来投資研究所:青山あきら (聞き手 AA)

運動、特に歩くということが、健康維持にとって重要であることは、広く認識されていますが、このことに対する確固たる科学的根拠を与えたパイオニア的研究の一つに、「中之条の奇跡」と呼ばれ、日本はもちろんのこと、世界中に多大な影響を与えた研究があります。この研究は、群馬県中之条町の65歳以上の全ての住民に対して、20年以上にわたって、現在も継続して行われている疫学的研究で、運動量とほとんど全てのメジャーな病気の間にあるおどろくべき関係が明らかにされました。本日は、科学的研究のSDGsにおける役割に注目して、この中之条における疫学的研究を率いておられる東京都健康長寿医療センター研究所の青栁幸利先生に、お話を伺います。

【そのI】 群馬県中之条町

【そのII】 研究遍歴
スポーツ医学
湾岸戦争とカナダでの研究
コソボ問題でアメリカでの就職内定取り消し
帰国
東京都老人総合研究所:自然科学から社会科学へ
故郷で疫学研究

【そのIII】 中之条研究
生活習慣を活動計で測るという独創的研究
日常生活の数値化:2つの軸で人間の行動を表現
最初の発見
日常身体活動と病気の関係
病気の発症のメカニズム
病気の予防法
老化と活動量と病気の間の因果関係
老化のコントロール
比較するという科学の原則

【そのIV】 SDGs

【エピローグ】

 

II 研究遍歴

AA: 先生のご経歴、中之条研究に至るまでを、お話していただけますか?

スポーツ医学

AY: 私、元々スポーツ医学を専門にやってた人間だったんですね。ネズミに運動させたりしながら、組織を取り出して染色してみたり、生化学的な分析をしたり、そういうことを中心にやっていたんですが、助手を2年勤めて、もうその後がなかったんですね。

ちょうどその2年間の間に、学会で発表する機会が大阪であったんですが、そこで座長をしてくださった、ロイ・シェパード先生が、あなたの研究面白いね、って言ってくださって。それで、これはもう日本にいても就職がないんだったら、海外で、もう一回勉強しなおそうかな、なんて思って。で、1990年に渡ったんですが、91年の冬ですかね、湾岸戦争が起こって。

湾岸戦争とカナダでの研究

トロント大学というところに行ったんですが、近くの郊外で、国立環境医学研究所てのがあって。湾岸戦争対策で、防護服を着ますよね、ガスや化学兵器から身を守るために。あのー、サリン事件なんかでも着るような防護服ですよ。あれを着た時に、戦場で戦士が15分と保たないらしいんですね。で、生地を薄くする方は、オタワの国立の研究所で、どんどん生地を薄くしながらも、自分の身を守るためのシステムを開発して。で、医学研究所の方では、人間の体を、どういう風に、適応させることによって、人体の負担を軽減するか、ていうようなことを、同時にしようという、ま、これ、NATOの全体の取り組みだったんですが、やり始めて。私としては、別に何をやってもよかったんで、じゃ、体温調節の分野っていうのも、初めての経験なので、やってみようか、なんていうことで始めて。人工気象室の中で、気温が40度、湿度30%の中で、いろいろな作業をした時に、人間の体ってどんな風に変化するのか、とか、防護服を着た時に、どのくらい、熱による負荷がかかるのか、みたいなことを、研究始めてるうちに、だんだん、幅が広がってきた、といいますか。でも、そこでも、まだ、老化研究っていうのは、そんなに、強い思いはなくて。

コソボ問題でアメリカでの就職内定取り消し

で、アメリカで仕事をしようと思って、National Academy of Scienceで、3次試験まで合格して、面接まで行って、NASAとアメリカのボストンにある国際国立環境医学研究所で二つ内定をもらって、1996年の10月に採用が決まっていたんですけど、ちょうどその時に、また、湾岸戦争のように、国際問題で、コソボ問題っていうのが発生して、国費留学が、全部カットになってしまって。それで慌てて、他のポスドクも、もう、世界中に100通ぐらいメールを打ったかもしれません。あのー、宇宙飛行士にでもなるかなって思って、毛利衛さんにもメールを打ったりもしたんですね。ま、もちろん返事はきませんでした。

帰国

まあ、そんなことがあって、1996年の12月でしたかね、もう、海外でも、先がなかったんで、日本に帰ってきて、就職探しに、10ぐらい、大学の公募に応募しましたがね。でも、大学っちゅうのは、大体内定が中で決まっているので、相手にもされず、最後の最後で、運よく、奈良女子大で、また、2年いたんですね。で、そこで、ちょっと、研究環境が、自分には合わなかったもんですから、大阪大学に行って、非常勤をさしていただきながら、医学部の方で、勉強をさせていただきながら、でも、まあ、2年続けてるうちに、こりゃダメだなと思って、東京都健康長寿医療センター、昔は、東京都老人総合研究所と言ってたんですが、たまたま、トロント大学に留学をした方が、あの、もう、副所長で退官されて、その方に引っ張っていただいて。

東京都老人総合研究所:自然科学から社会科学へ

たまたま、運動科学なんだけど、そこで副長のポジションが空いてるんで、どうだろう、なんていうことで、応募させていただいて、入って、そこで今の研究が。自然科学系の方がよかったんですが、社会科学系の方に配属されたのがきっかけで、社会科学で。

もう、全く、研究、実験設備が整ってないところに入っちゃったんで、こりゃあどうしようか、っていった時に、隣近所を見たら、普通に、疫学研究という、あの、もう外に出て行って、自治体とか、色々そういう普通の住民の方々を対象とする研究を盛んにやる研究所だったんですね。ま、日本一盛んかもしれないですけど、そういうのを見様見真似で。たまたま、赴任したその年の夏に、秋田県で10年目の研究が終わるところだったんですが、手伝ってくれっていうことで、10日間連続で、泊まり込みで、医学検査と疫学研究というのを、医学検査をやったり、栄養調査をやったり、そういう調査に参加をさせていただいて。

故郷で疫学研究

あっ、物がなくて、実験室がないところでも、こういうふうにやれば、なんとかなるんだなあ、っていうか。そういうのを学んで、じゃあ、私もそれをやってみようか、って言った時に、東京と群馬県の距離感を考えると、ちょうど日帰りもできますし、あの、なんかの時に、そして、お願いする、って言ったら、やっぱり、誰か知った人がいたほうがいいな、と思いまして、それで故郷を選んで。

で、その年、もう赴任した年にお邪魔して、こんなことができないだろうか、っていうふうに、街の人たちと相談しながら、翌年に始めた、っていう、それで今の研究体制が確立した、っていうのが。全くの疫学研究の素人が、もう、紆余曲折、あんまりこう人生、研究者人生、うまく行かなかったんですが、その中で、こっちに転んで、こっちでなんとか起き上がった時に、なんとかできて、また転んで起き上がった時になんとかなって、っていって、こう紆余曲折を経て、今の位置に辿り着いてる、って、そんな、あんまり誇れるような、研究者人生ではありません。

〈-そのⅢ-につづく〉

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