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株式会社HELTE 後藤学氏 インタビュー -その2- 株式会社 HELTE

株式会社HELTE 代表取締役 後藤学 (G)
未来投資研究所:青山アリア 喜多茂樹 青山あきら (聞き手 A)

株式会社HELTE社長の後藤学さんは、日本語を学ぶ海外の若者と日本の高齢者をインターネットでつなぎ、日本語での会話を通して、語学学習のみならず、異文化の若者と老人を結ぶという独特の文化交流の形を作られ、ご活躍中です。本日は、人々の相互理解を通して、世界平和にも貢献する、日本発のユニークなビジネスを展開されている、新進の若手実業家である後藤さんに、起業の背景と事業の意義を中心に、その思いを、SDGsに取り組む、特に、若い世代の方々とシェアしたいと思います。

【そのⅠ】 起業の背景
生い立ち
インドでの衝撃的な経験
その後のヨーロッパ・アジアへの旅
東南アジアで見聞きしたこと
アメリカの老婦人とインターネット

【そのII】 株式会社 HELTE
ビジネスモデル:就職から起業への1年間
海に出たい!
出資者
事業
社会情勢とコロナ
海外の若者たち
コロナ
事業の可能性

【そのIII】 HELTEの新しさ
シニア層
美しいということ
今後の展開
産学官民での連携

【そのIV】 SDGs

【エピローグ】

 

II 株式会社 HELTE

ビジネスモデル:就職から起業への1年間

A 起業時の様子と、事業の内容について、お話をお伺いできますか?

G 先程のその思いをもって帰国しまして、2014年に大学を卒業してから、すぐに、就職をして。教育に携わりたいとかいう思いは、日本に帰って、普段の生活に戻ると、周りのみんなが就職活動をしていて、僕自身も大企業に勤めたいっていうような気持ちがやっぱり大きくなりました。で、2014年の4月に、NTT関係の会社に就職をしまして。母は、フリーランスでずっと仕事をしていたので、もう大喜びで、あ、これで息子も安泰だというようなところで、僕もこれで人生安泰だと、いうような気持ちで、入社をして。そっから、あのー、まさかの1年間で退職をしてしまいまして、、、研修費泥棒とか散々言われて、やめました。

で、2015年の4月から2016年の3月まで、1年間、起業の準備期間がありまして。も、ただニートで、失業保険もらったりとかして。人、物、金、情報、全てないので、簿記を勉強しなおしたり、自分でプログラミングを勉強したり、ビジネスについて本を読んだり、ビジネスモデルを考えたりとか、本当に先の見えない、光の見えないトンネルをずっと走ってるような感覚の1年間が続きまして。

で、その時に、先ほどお話をした、自分自身の海外での原体験と、アメリカのおばあちゃんと話した、っていうところが結びついて、あ、これは海外側でもできるな、国内側でもできるな、というような考えが浮かんで、日本のシニア層の方と、海外で日本語を学んでる方をつなげよう、というような形で、事業をやってみたい、っていう。やっとそこで固まったのが、2015年の10月とか、9月とか、それぐらいだったかな、というふうに記憶してます。

海に出たい!

A NTTは、どうしてやめられたんですか?

G やっぱり、挑戦したい気持ちの方が、NTTで会社を続けたいというよりも、ちと大きくなってしまいました。NTTの会社も、すごくサポートを僕にしてくれて、本当に充実はしていたんですけど。同時に、その、インドで暮らしていた時の、思い、というか、なんか、自分自身で挑戦したいな、ていうような思いが、グングン、グングン、ドンドン、ドンドン、膨れ上がってきてしまって。で、その時に、いや、でも、石の上にも3年とか、3年は続けた方がいいかな、っていう気持ちもあったんですけど、やりたいのであれば、ま、泥舟でも、一回港を出てみるのもいいんじゃないかな、っていう風に、すごく心が固まって、もう、決めたら、退職届を出していました。

A それは、一人でやりたい、という気持ちの方が、強かったんですか?あるいは、こういうことをやりたいというのが、あったんですか?

G 何がやりたいか、決まってなかったですね。ただただ、もう、海に出たい!で、本当に、若気の至りで、もう、無知だからこそできた、もう強引なやめ方をしまして。で、1年間、塩を舐めて生活するような感じになり、そして、2015年の11月にやっと、これでやりたいっていうふうな形で、全体像のビジネスモデルが決まって。

出資者

で、投資家を回り始めるんですけど、やっぱり、お金は誰も出してくれずにですね。母もすごく心配していて、1年間準備しても、何も動かないのであれば、やっぱり、再就職した方がいいのかな、とか、色々頭をよぎるようになってきました。で、その時に、高校卒業したぐらいから、ずっとお世話になっているフランス人の方がいまして、その人に、最後会いに行こう、っていうようなことで。彼は、メインは、バルセロナとニューヨークで、ビジネスをしているんですけど、住んでいるエリアは、台湾でして、彼に、2015年の年末ですね、会いに行って、僕は今こういうことをやりたいんだ、というような話をして、どうにかならないかな、というようなこと相談をしたら、彼は投資とかしてるっていうことは、僕は全然知らなかったんですけど、その場で、お金は俺が出す、と、自分のこのお金で、事業をスタートしろ、っていうような形で、出資をしてくれることが決まりまして、2016年の3月に、会社の登記ができて、今のこのプロジェクトを始めることができました。

事業

事業の内容自体は、2016年に始めた時から、大枠は、もう全然ズレていなくてですね、それは、日本のシニア層の方々と、海外で日本語を学んでいる若者たちを、このプラットホーム上で、マッチングすると。なんですけど、最初の1年半、2年弱ぐらいは、やっぱり、プラットホーム自体を作るのも、まだまだ、物自体もなかったので、ほんとに手探りのなか、事業を継続してました。

去年の夏頃までは、ターゲットが少し違っていまして。具体的にいうと、海外側は、タイの大学です。タイの大学で日本語を学んでいる若者たち。日本側は、日本の高齢者向け住宅に住んでいる人たち、を、マッチングさせる、っていうようなプラットホームでした。なんでここを選んだかというと、やっぱり、箱に人が入っているので、営業がしやすい、っていうふうに考えたというところが、経緯としてあります。なんですけど、このビジネスモデル自体は、うまく機能しなくて。その理由っていうのは、もう明確でして、高齢者向け住宅は、介護保険の中の収益から事業が成り立っているので、町にあるデイサービスとか、有料老人ホームとかっていうのは、なかなか、システムを導入するお金を捻出できないというところが、一点挙げられます。もう一つは、今、介護士の人たちが現場で足りないので、新しいシステムを入れても、運用がうまくいかない、っていうような、この二つの問題に直面しました。

で、今年の1月ですね、もう、キャッシュも尽きて、本当にやばいというような状況に陥ったんですけど、その時に手を差し伸べてくれる投資家が、現れまして、彼に救ってもらい、そっから、投資家もどんどんどんどん増えていき、ビジネスモデル自体も、抜本的に変えなけりゃいけない、というようなところで、在宅のアクティヴシニアの方々と、ほんとに個人で日本語を学んでおられる人たちも、タイ、ベトナムとかに囚われず、世界中誰でも参加できるような、プラットホームに、展開をして、事業を再出発させた、というような経緯があります。

社会情勢とコロナ

A その後、その高齢者施設とのビジネスモデルは、相変わらず、難しいですか?

G ここのコロナになってから、潮の目が変わってきまして。ツクイという、介護でも大手の会社への導入が決まって、ここにきて、施設にも導入が進んでいるという状況ですね。

A 最初、そのタイの大学とのお仕事というのが、メディアにもよく紹介され、かなり可能性があるとおもったんですけど、難しかったんですね。

G そうですね、多分、いろんな変数、要因がありまして。でも、いちばんの要因として、僕自身が、やっぱり、ビジネスをちゃんと理解してなかった、っていうところが原因としてあるんですけど。それ以外にも、去年の4月に変わった入管法で、外国人の人が、今後、どんどん日本に来るよ、とか、そういったことが、2016年って、過渡期で、まだなかったんですね。なので、外国人に対する受け入れっていうような感度も、日本自体もまだあまり高くなかったっていうところが、要因としてひとつあるのかな、って思ってます。

で、かつ、このコロナっていうとこが発生して、教育を全てデジタルに変えていかなきゃいけない、なかなか国と国の移動もできないというふうになると、それこそ大学への投入ってところも、また、動き始めましたし、高齢者住宅の導入も動き始めたので、これまで築き上げてきたりとか、遠回りしてしまったな、という、僕は、気持ちはずっとあったんですけど、それは、実は、あんまり無駄ではない、必要なプロセスだったなあというふうに捉えてます。

海外の若者たち

A 海外の人たちを、募集していく過程は、どういう感じだったんですか?

G 2016年に立ち上げたばっかりの時で言うと、そのフランス人からもらったお金を握り締めて、毎月タイに行ってました。タイの大学に、お土産持って行って、白い恋人とか持っていって、もう、お菓子賄賂みたいな感じで渡して、ちょっと、大学の学生の人にお話しさせてください、プレゼンテーションさせてください、システム使ってみてください、っていうような感じで、1ヶ月に1回は行って、一週間、二週間滞在して、飛び込み営業をずっと、タイの、多分バンコクにある大学は全部行きました。で、そこで、MOU(Memorandum Of Understanding:基本合意書)を、最大15校と結ぶことができて、大学の一つのカリキュラムとして導入をしてもらう、っていうふうな形で、まずは、展開をしました。そこから、ベトナムの送り出し機関にも可能性があるな、と思って、技能実習生のトレーニングをするような機関なんですけど、そこにも展開をして、to B(B to B: Business to Business)の形で主にやっていたんですけど、やっぱりどうしても、展開するスピードであったりとか、いちいち行かなけりゃいけない、っていうのが、すごく大変だなあ、というところと、キャッシュの部分の問題もあったので、to C(Business to Consumer, Customer)の方の、台湾とか、香港とか、欧州、欧米の方ですね、にも、今切り替えていて、その学生たちには、主に、ソーシャルネットワーク、SNSを使って、マーケッティングをしています。

コロナ

A 現在、市場開拓は、どういうふうになさっているんですか?

G 現在は、もう、大前提が、コロナの後で、変わったな、と、思っていまして。オンラインでの打ち合わせができるようになったので、to Bの営業の方でも、全部、このようなオンラインで、DMを送って、興味がある人は、返信してもらい、そこで面談をして、ああ、いいね、このサービス、じゃあ、50アカウント、発行して、ていうような形で、もう全部、オンラインで終結するように、営業をしています。で、to Cの方の、個人の学生ですね、そういう送り出し機関とか大学に属していない、世界中に散らばっている人たちには、もう、ほんと、オンラインの、Facebookとか、インスタグラムとかいう、若者がみるような、ツールを使って、それを活用して、マーケッティングして、Facebookとかっていうところを入り口にして、僕たちのタブに登録してくれるような、マーケッティングの施策を打っています。

事業の可能性

A 海外の人たちへの、貢献、需要、あるいは、その事業を広げて行った時の影響、などは、どうお考えですか?

G 数、マーケットの大きさでいうと、国際交流基金という、日本語学習を調べている機関がありまして、そこの最新のデータによると、公的な機関、例えば、大学とか、高校とかで、日本語を学んでいる人たちが、約400万人、世界中にいると言われていて。でも、すでに卒業している人とか、卒業したけど、まだ引き続き勉強している人を含めると、3〜4,000万人いるっていうふうに言われているので、僕としては、十分大っきい市場だなというふうに、思っています。

こういう人たちが、僕たちのサービスでもそうですし、日本語を学んだりとか、日本の文化を知ってくれることによって、僕は、本当に、極端な話、なんか、国防だったりとか、外交にも繋がるな、というふうに思っていて。国と国間では、どうしても、いざこざがあったりとか、僕も、韓国人の友達とかもたくさんいますけど、どうしても、韓国人は、とか、日本人は、とか、排他スピーチが何だとか、色々あると思うんですけど、一人一人がつながることによって、SDGsの話ともつながるかもしれないですけど、これから、世の中の社会が、よくなっていく、僕は、一手になるんじゃないかなと思っています。生活、社会、平和とか、戦争のこととかの話もあると思うので、発信する起点が、シニアというところが、次の世代に、経験とか、考え方とかいう、つなげるという意味でも、持続可能な、より良い社会になるための、僕は、一つのアクションかな、っていうふうに捉えています。

A 今言われた、世界平和だとか、お互いの理解とかいう面で言うと、多くの国が、後藤さんと同じようなプログラムを作って、例えば、アラブの国がアラブ語の勉強を、オンラインでつないでいく、って言うような、そう言う方面にも、発展していけばいいなと思うんですけど?

G 僕たちのプラットホームには、シニア層という軸足は、引き続き、ずらしてはいないものの、ミドル層とか、最近、若者とかも入ってきているんですけど、僕としては、やっぱり、軸は、シニア層です。世界の高齢化みたいなところを見ると、やっぱり、先進国は、もちろん日本はトップだと思うんですけど、イギリスも、アメリカも、フランスも、どこも伸びてきてはいるので、中国とかも。なので、このモデル自体が、それこそ、日本発で、しっかりと形ができたら、フランス人のシニアと、フランス語を勉強しているカンボジア人でも、アメリカ人のシニアと、英語を勉強しているブラジル人でも、ま、いろんな水平展開できる可能性は、十分秘めているな、というふうに、考えています。

A そういうのが、世界中を飛び交っていると、まさに、世界平和に、一歩づつ、近づいている、っていう感じですね。

G そうですね。なんか、やっぱり、どうしても、僕自身も、自分の生まれ育った生い立ちのところもそうですけど、色眼鏡というか、サングラスをかけて、社会とか、世の中をみている時期が、すごく、多かったので、それを、ちょっと取って、クリアな状態で、人だったりとか、起きてることとか、状況を見れるような、なんか少し、そういったものに、タッチできるような場にしたいと、思っているので。そういったこの活動を、日本と他の国だけではなくて、いろんな国に展開したいな、ていう、大きな夢を持っています。

〈-そのⅢ-につづく〉

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