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文化の力で持続可能な社会の実現を「Noh for SDGs」: 新作能 『水の輪』 & 『オルフェウス』 、子ども達と作る能。山本能楽堂 ‐その1-

ユネスコ世界無形遺産である能楽により「水や森を大切にする気持ち」を持って、

世界を一つにつなげ、次代へと「美しく豊かな水や森」を伝えていきたい。

今回のSDGs Japan Portalのインタビューは、「Noh for SDGs」を掲げて、新作能『水の輪』『オルフェウス~森の豊かさを子ども達と一緒に守り、育てる』の公演を中心に、文化の力で持続可能な社会の実現をめざされている公益財団法人山本能楽堂のCOO(運営責任者)ともいうべき山本佳誌枝さんに登場していただきます。
―その1―では、インタビューに入る前に、より理解を深めていただけるように、読者のみなさまには、大阪が水と関わってきた歴史を簡単にご説明してまいりましょう。

 

太古より「水の都」として栄えてきた大阪

江戸時代には「江戸の八百八町、京の八百八寺、浪華の八百八橋」と謳われた大阪(実際にかけられている橋は200ほどだといいますが…)。二重構造の天満橋、中之島公園の端に位置する天神橋、ライオン像が守る難波橋といった浪華三大橋をはじめ、京橋、心斎橋、肥後橋、鶴橋、四ツ橋など橋のついた地名がたくさん残っています。橋に象徴されているように、大阪は水の都市「水都」と呼ばれる水に恵まれたまちでした。
太古の大阪は、上町台地が唯一の陸地で、現在陸地である地域ほとんどが海となっていました。長い歳月が経ち、海は陸と化していくのですが、古墳時代から飛鳥・奈良時代に築かれた難波宮は国際的な港湾都市であり、平安時代には渡邊津(現在の天満橋付近)という港がつくられるなど、水とは縁の深いまちだったのです。
「水都」が本格的に機能した源は、豊臣秀吉の都市開発事業でした。大阪城の築城とともに城の西方の外濠として東横堀川が掘られました。さらに、商人たちも堀川開削を行い。船場を中心に「水の都」と呼ばれる街の原型ができあがりました。縦横無尽に広がる堀川は、大阪の物流の動脈として「天下の台所」を支える重要な役割を担い、以後300年余り廃れることなく利用されてきました。それが「浪華の八百八橋」と謳われたわけです。

江戸時代の大坂のまち(『水都大阪』ホームページより転載)

 

文化とともに「水の都」を謳歌した「大大阪」の時代

大正時代後期から昭和時代初期にかけて、大阪は第二次市域拡張により周囲の市町村を合併して、東京を超え日本最大の人口を誇る都市となりました。加えて、東洋一の商工業都市となり、当時世界的な工業都市になぞらえて“東洋のマンチェスター”と称されていました。
これが、大阪が「大大阪」と呼ばれた時代です。
この時代は、商工業が栄えると同時に、文化・芸術が華ひらき、活気にあふれた時代でした。道頓堀界隈には、浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座といった道頓堀五座と呼ばれた劇場が並び建ち、カフェには、最先端のファッションを身にまとったモボ・モガあふれ、服部良一氏の“道頓堀ジャズ”がまちに鳴り響いていました。♬赤い灯 青い灯 道頓堀の♬という歌詞で知られる『道頓堀行進曲』がヒットしたのもこの時代です。
まちの至る所に近代モダン建築が建てられ、特に中之島界隈には、初代大阪市庁舎(1921(大正10)年竣工)をはじめ、中央公会堂(1918(大正7)年竣工)や堂島ビルディング(1923(大正12)年竣工)などが、水都の伝統を生かし、水辺からの美しい景観を意識して造られました。
当時の絵葉書を見ると、「水の都」「水都」という文字が用いられ、大阪の水辺の景観が、近代化する大阪の象徴として謳われていたことが分かります。
「大大阪」の時代は、まさに大阪が水と文化で繁栄を極めた時代でした。

大阪名所 道頓堀(1933年(昭和8年))大阪市立中央図書館蔵
(『水都大阪』ホームページより転載)

 

戦後から高度成長期以降、“川に背を向けた” 大阪

第二次世界大戦後、モータリゼーションの発達で、交通網の整備が必要になりました。
そこで、交通網としての機能を失った多くの川や堀が埋め立てられたり、川面に蓋をするように高架道路がつくられたりしていきました。
また、急速な経済発展により過剰な地下水汲み上げが起こり、大阪の地盤が低下し、大阪は度重なる水害に見舞われることになります。その結果、たくさんの防潮堤が築かれ、無機質なコンクリートの護岸壁が水辺の前に立ちはだかりました。
さらに、急拡大した経済活動とそれにともなう人口増加によって多量の生活排水や工場排水が河川に流れ込み河川の水質は悪化し、自らの大切な川を“ドブ川”と呼ぶような人も現れるような状態になってしまったのです。
大阪のまちが、川に背を向け、顔を背けはじめたのです。川との接点を失った大阪の人々は、やがて、水辺への関心を忘れ、水辺とともに育っていった文化にたいしても興味をなくしていったのです。かつて大阪で暮らす人々が水辺に親しんだ姿は影をひそめ、人々の生活から水辺が遠のいていきました。戦後から高度経済成長を経て、つい最近まで、大阪では、このような状態が続いていました。

阪神高速が蓋をするように走る東横堀川(『水都大阪』ホームページより転載)

 

かつての“水の都”を取り戻す活動「水都大阪2009」

市域に木津川、堂島川、土佐堀川、道頓堀川など数多くの川が流れ、豊臣秀吉による水運を基盤とした都市づくりが進められ、「天下の台所」と呼ばれるほどの経済発展を遂げた大阪。しかし、戦後の過度な経済偏重により、川の存在は薄れ、人々の暮らしの中心にあった川は忘れ去られ、川底にたまったヘドロから周辺には悪臭が漂っている有様でした。
2009(平成21)年、この状況をなんとかしようと、かつての繁栄にちなみ、「川と生きる都市・大阪」をテーマに、水環境と経済活動を共生させた都市づくりを世界に発信しようと立ち上げられたのが「水都大阪2009」です。この官民あげてのイベントプロジェクトは、“水都大阪”の魅力を広く伝えるとともに、川や水辺を活用したにぎわいをつくり、その担い手たちのつながりを新たに生み出し、都市再生の原動力にすることを目的にしていました。
その活動内容は、①親水性の高い中之島公園や水の回廊を中心とした市内各所において、川と人をつなぎ、水辺の楽しさを再発見できるさまざまなプログラムの展開、②体験型アートプログラムやワークショップ、灯りで会場を埋め尽くすプロジェクトの実施、③アート舟の巡航や橋梁ライトアップ、船着場での朝市やリバーマーケット、近代建築はじめ川や橋梁などを巡る水都アート回廊、舟と水辺を組み込んだまちあるきなど。いずれのプログラムも企画から運営まで、市民や地域、NPO、企業、アーティストたちが知恵と力を結集し、行政と協働して実施されました。いわゆるオール大阪で行われたのです。
「水都大阪2009」実施にともない、これまで川に背を向けていた建物が改修され、北浜地区に社会実験として川床が誕生するなど市民参加が促され、まちづくりの機運の高まりを見せました。そして、にぎわいのある水辺の拠点整備が進められるなか、大阪はかつての「水の都」の姿を取り戻そうと成長を続けています。

「水都大阪2009」八軒家浜のにぎわい(『水都大阪』ホームページより転載)

さあ、いかがでしたか?大阪のまちと水の関わりについて、ご理解いただけましたか?いよいよ次回からは、山本能楽堂の山本佳誌枝さんにご登場いただいて、実際にお話をお伺いしていきます。乞う、ご期待。

〈-その2-につづく〉

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