平田オリザ氏(H)へのインタビュー 聞き手: あおやまあきら(A)※未来投資研究所 理事
〈-その1-〉 演劇の楽しさ
- 演劇の起源
- 話し合いのディシプリン
- 劇場というシステム
- 空間を共有する楽しさ
- 他者を演じる
〈-その2-〉 始動
- 東京駒場商店街
- 演劇活動の開始
- 演劇の言語に対する違和感
- 固有性と普遍性
〈-その3-〉 社会の中で
- 劇場経営
- 劇場の役割
- 地方とのつながり
- 演劇を作る劇場
〈-その4-〉 豊岡
- 市長との出会い
- 豊岡に文化を
- 演劇教育
- 国際観光芸術専門職大学
- 劇団ごと移住
〈-その5-〉 教育と地域社会
- 世界都市
- 演劇教育は世界標準
- 演劇教育を通して学んでほしいこと
- ステイホームとは
- 弱者のいない災害
(3)社会の中で
A:その理論的なものを今度は、青年団を作られて、実際に東京の駒場で、劇場での活動をされていかれるのですが、どのように進めて行かれたのですか?
劇場経営
H:あ、劇団自体は、もう学生劇団で、細々とやっていたんですけども、一方で、先ほど申し上げた、父が作家で、若い頃演劇もやってたもんですから、自宅を劇場にするのが夢だったんですね。それで、私が大学生の頃、自宅を劇場に、全部借金で劇場にしたんですけど、
A:ご自宅を劇場にされたんですか?
H:そう、ちゃんとしたビルの劇場にしたんですが、大変な借金をしてしまって、しかも、そういう父親なので、あんまり経営の能力がなくてですね、一挙にこう家が傾いて、経済的に。それで、僕は、卒業時点で、家業を継ぐような形で、その劇場の支配人になったんです。なので、僕の20代っていうのは、作家、劇作家というよりは、劇場支配人として、経営者として、過ごしてきたんです。芝居も作ってましたけど。
A:それはすごく大切ですね。
H:そのときにした苦労が、後々役には立ちました。すごい借金をしてたので、それを返さなけりゃいけないんですけど、そんなの返せないので、ま、資金繰り、いわゆる中小企業の、資金繰りをしていくわけです。その時にですね、要するに、何ていうか、銀行というのは、貧乏人には、お金を貸さないのがわかってる。それで、どんなに苦しくても、いや、お金ありますよって顔してないと、貸してくれないんです。で、そのことは、後々、文化政策について、勉強したり、語ったり、あるいは、現実に助成金出すように言いにいったりする時に、非常に役に立ちました。
ずっとそれまでの、ちょっと飛びますけど、日本の芸術文化政策の、演劇人とか音楽家たちというのは、貧乏だからお金くれって言ってたのですけれど、それではお金は出ない。そうじゃなくて、私たちはボヘミアンだから別にどこででもやりますよ。しかし、日本の国家が芸術家を大切にしようとするならば、お金を出さないと、私たちは外に 出ていってしまいますよ、ということを、きちんと言っていかなくてはいけないっていうことを、20代で、銀行を通じて学べたのはよかったです。
劇場の役割
A:それはいいお話です。そこで、劇団の人たちが集まりますよね。その劇団の人たちに、支配人ということは、給料を払って、同時に、劇場経営に関わる全てをやられてたわけですか?
H:そうです、そうです、はい。
A:それにとどまらず、将来に向けて、それをさらに発展させていくのに、劇団員に、それぞれ独立を促していくとか、いろいろユニークな方式を取られています。
H:はい。
A:それは、どういうふうに進めていかれたんですか?
H:ああ、それはもっとずっと後ですけれども、その、本来劇場というのは、日本では貸し劇場って言って、不動産屋さんみたいな仕事なんですけども、冒頭で申し上げたように、ヨーロッパでは、劇場というのは、演劇を作ったり、それから、人材を発見したり、育てたりする場、なんです。そういう公的な責任があるわけです。で、アゴラ劇場と、もうひとつ 東京に小さな劇場を持ってるもんですから、そこを、若手の、才能のある連中に、比較的安く、ほぼ無料で、貸し出すことで、そっから、これは2000年代に入ってからですけれども、次々、日本の演劇界を代表するような才能が育ってきた。
A:何かすごく、ヨーロッパ的ですね。その時に、劇場の周りっていうのは、どういう雰囲気だったんですか。
H:劇場の周りは、もう、普通の商店街なので、僕はそこで生まれ育っているので、非常に特殊ではあるんです。周りの近所の人たちはみんな僕の子供の頃から知っているので、それは、強みではありましたね。はい。
A:その近所の人たちは、劇を観に来られる?
H:たまにきます。たまにきますけど、僕は、劇場ってのは、あの、来なくてもいいと思っているので。よく説明するのはですね、学校を嫌いな人たくさんいるでしょう。でも、町に学校がなくていいっていう人はあまりいないです。病院嫌いな人、もっといるでしょう。でも、病院、町に病院なくていいって人絶対にいないです。劇場もそういう場所なので。行政は何人来るんですかみたいなこというんですが、そうじゃないんです。だけど、町になくてはならないものになるっていうことは大事なことだと思うんです。
そういう意味では、例えば、東日本大震災の時にですね、東京のコンビニで、おにぎりとかサンドウィッチがみんななくなりました。すごく恥ずかしい、ま、今回もそれに近いことが起こったんですが。それでうちの4軒隣にパン屋さんがあるんですけど、買いに行ったんです。ちょっとパンを、たまたま。で、どうですかって聞いたら、いやあ、あの、普段通りなんだけれども、知らない人が、あの、3斤、4斤、買っていくんです。
要するに、商店街の人間は、そんな恥ずかしいことはできないわけですね。買いだめなんてことはしないんですけど、知らない人が買っていく。で、その時にですね、うちは商店街では、アゴラさんって呼ばれているんですけど、アゴラさんは若い人の出入りも多いでしょうから、うちは小麦の備蓄があるんで、言ってくれれば、焼きますから、って言ってくださって、それは、ほんとにありがたい、やっぱ地域に根ざした劇場として、ほんとにありがたいなと、思って。
A:つまり、出発点として、元々そこにある劇場として、地域の一部としてあるところから出発されたわけですね。
H:そうです。
地方とのつながり
A:そういうことで、すごく力を持ち得たような気がするんですけども、何もないところに行って、理念だけで、いろいろやっていこうとすると、非常に難しかったと思うんです。それで、そこから急速に、日本全国の劇団とつながりを持ったり、外国とのつながり、というふうに発展されていくわけですけれども、それはどのように進んでいったんでしょうか?
H:そうですね、えっと、地方の劇団との繋がりの方が先で、たまたま劇場と稽古場を持っていたので、その建物がですね、そこは泊まれるっていう噂がこう流れてですね、結構地方の劇団がバラバラに東京に上演にきてた。で、これは、バラバラに来られても困るので、まとめてこう宣伝をしていこうみたいな形で。それまで、地方の劇団が東京で上演するということがあまりなかったので、それの登竜門的な役割というのを一つ、果たして。で、その逆で、私たちの劇団も、地方の旅公演をしにいくっていうのが、90年代にそれをふまえていったんですね。
演劇を作る劇場
A:それはすごくうまくワークしてますね。
H:そうですよね。先ほども申し上げたように、東京の小劇場というのは貸し劇場で、ある意味、オーナーさんがちょっと趣味でやってるようなとこが多いわけです。で、そうではなくて、ま、借金が多かったこともあって、これ、やっぱり、サービス業として、きちんと成立させたいと思ったんです。だから、劇場に、照明や音響の資材があるのと同じように、例えば、コピー機や、高速輪転機も、入れたんです。それは、パンフレットとかチラシをみんな刷るので、だったら、それは劇場で刷れるようにしようと。
演劇を作る機能を、劇場てのはもたないといけないだろう、ということは、結構、もう、劇場をついだ段階、80年代の後半ぐらいで、考えてたことなんですね。で、そういう蓄積があって、それが、2000年代に入ってから、海外で仕事をするようになって、そうすると、海外の劇場っていうのは、書籍を通じては知っていましたけど、まさにこういうことなんだと。作る場所なんだってことが、実感できて、そっから、さらに、その、先ほど言ったような、若手の育成とかが、始まったということです。
A:なるほど。それで、若い人たちの劇団なり、劇、演劇というものが、広がっていったと思うんですけども、平田先生みたいな形の、それぞれの土地で、劇場、を持って、地域の中で、根付いていくていうような形をとっている若い方達はおられますか?
H:今、少しずつ、出てきています。やっぱり、東京の環境が相当厳しいので、少しずつですけれども、出てきています。このコロナの後に、これ加速するんじゃないかと思っています。