「開示しないこと」自体がリスクになる時代
企業や金融機関が自然資本や生物多様性に対する依存度・影響・リスク・機会などを評価し、それを財務情報として開示するための国際的な枠組みが、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD:Taskforce on Nature-related Financial Disclosure)と呼ばれているものです。このTNFDに沿った情報開示を表明する企業は、世界中で急速に増加しています。先行して公表されたデータによると、2025年4月時点で世界562社がその意思を明確にしており、そのうち日本企業は154社と、国別で世界最多を記録しました(環境省発表)。
この数字は、単なる「日本企業の意識の高さ」を示すものではありません。日本の市場環境が、自然資本の開示を事実上求める方向に明確に動いていることの表れです。東京証券取引所でもプライム市場の上場企業に対してTNFDに沿った開示を実質的に求める議論が本格化しており、いまや「TNFDに取り組まないこと自体が、資本市場においてリスクと見なされる」段階に入りつつあります。
かつて気候変動への対応がCO2排出量の可視化から始まったように、今、企業は「自然との関係」を数値化し、経営戦略に組み込む新たな局面を迎えています。そして、ネイチャーポジティブ(自然再興)へのパラダイムシフトにおいて、次なる主戦場として浮上しているのが、地球の表面積の約71%を占める「海」です。
TNFDが変える「見えないリスク」の扱い方
TNFDは、企業や金融機関に対して、自社の事業が自然環境にどの程度依存し、どのような影響を与えているかを体系的に開示することを求めるフレームワークです。
ここで重要なのは、TNFDが単なる「ボランティアとしての環境保護」を求めているのではなく、「自然資本への依存と影響を、経営リスクとして管理できているか」を厳しく問うている点です。この自然資本とは、森林、土壌、水、大気、生物資源など、自然によって形成される資本(ストック)のことで、これが劣化すれば、それに依存するビジネスモデルそのものが揺らぎます。そのリスクを投資家や取引先が客観的に判断できるよう、可視化することが求められているのです。
たとえば、海洋環境の劣化が引き起こす影響は、水産業だけにとどまりません。食品、化粧品、医薬品、物流、観光、保険――実に多くの産業が、直接的・間接的に海の機能に依存しています。これまで財務上のリスクとして認識されにくかった「自然への依存」が、今や投資判断の主要な軸になりつつあります。
日本郵船グループが公表した「TNFDレポート」では、TNFDにおける自然関連リスク・機会を評価するための「Locate・Evaluate・Assess・Prepare」の4段階からなる分析プロセス「LEAPアプローチ」を用いて船舶が航行する全海域を対象に自然資本リスクを地図上にマッピングしました。気候変動リスクと自然関連リスクを統合して把握するこうした試みは、海を舞台にするビジネスにおけるグローバルなベンチマーク(指標)となりつつあります。
「ブルーエコノミー」が示す成長の論理
海洋環境の保全は「コスト」ではなく「投資」である――この認識が、ブルーエコノミーという概念の核心にあります。
海洋は、炭素吸収、気候調整、食料・資源供給、そして膨大な生物多様性の維持など、人類の経済活動の基盤となる多面的な機能を担っています。ブルーエコノミーとは、これらの健全な生態系を維持・回復させながら、持続的な経済成長を目指すビジネスモデルです。
陸域(グリーン)の取り組みが脱炭素の第一波であったとすれば、海洋(ブルー)は気候変動と生物多様性の双方を解決する最前線です。世界経済フォーラムの「グローバルリスク報告書」でも、長期的なグローバルリスクの上位に「生物多様性の喪失と生態系の崩壊」が挙げられています。地球環境の健全性と、そこに暮らす人間や動物の健康は不可分であるという「One Health(ワンヘルス)」の観点からも、海洋生態系の復元は急務となっています。
ブルーカーボンと「海の資金循環」
海洋保全を経済の循環に組み込む具体的な仕組みとして、日本国内で特に注目度が高まっているのが「ブルーカーボン」と「Jブルークレジット®」です。
ブルーカーボンとは、海草藻場やマングローブなどの沿岸生態系が光合成によって吸収・貯留する炭素のことです。陸上の森林と比較しても非常に高いCO2固定能力を持つ点が特徴です。 ジャパンブルーエコノミー技術研究組合(JBE:Japan Blue Economy technology research associaton)が運営する「Jブルークレジット」の認証実績は近年急拡大しており、ドローンやAI技術を活用した藻場調査の効率化など、最新テクノロジーを掛け合わせたスタートアップの参入も進んでいます。
このクレジットの最大の価値は、CO2削減だけに終わらない点にあります。藻場の再生は、水質浄化や魚類資源の回復に直結するため、地域漁業の活性化や生物多様性の保全という多面的なリターンをもたらします。企業にとっては、脱炭素対応(カーボンニュートラル)と地方創生(ネイチャーポジティブ)を同時に実現できる極めて有効な手段となります。
また、海洋保全に特化した資金調達手段として「ブルーボンド(環境債)」の普及も始まっています。「あけぼの」「マルハ」から出発した日本最大級の水産物総合食品メーカーであるマルハニチロ(現Umios株式会社)が国内企業として初めてブルーボンドを発行し、持続可能な養殖や海洋環境の保全事業に資金を充当した事例はその先駆けです。こうした資金循環の仕組みが整うことで、海への投資は「単なる社会貢献」から「戦略的な資本配分」へと昇格を遂げています。

先行企業が示す、ブルー戦略の現在地
海洋分野を経営戦略の中核に位置づける企業は、着実にその裾野を広げています。
商船三井は、海外でのマングローブ保全・再生プロジェクトを通じてブルーカーボンを創出し、地域社会への貢献と自社事業の持続可能性を両立させています。外航海運という事業の性質上、海の環境を守ることは自社の事業基盤そのものを守ることに他なりません。
さらに、次世代の成長産業として「ブルーバイオテクノロジー」の領域も急速に拡張しています。
・微細藻類を活用した代替プロテインや機能性食品の開発
・海洋微生物によるプラスチック分解技術や新素材のクリーン製造
・深海生物や海洋固有の成分を応用した最先端の医薬品・化粧品開発
このように、全生物の生命活動の源である海は環境保護の対象であると同時に、イノベーションを生み出す巨大な「資源庫」としての側面を強めています。
「自然を回復させる力」が評価される時代へ
投資家が企業に向ける眼差しは、いま明確に変わりつつあります。
かつては「どれだけ環境負荷(CO2)を減らしているか」というマイナスをゼロにする視点が焦点でしたが、今後は「ビジネスを通じて、自然をどれだけ回復・反転させられるか(ネイチャーポジティブ)」というプラスの貢献度が評価の軸になっていきます。
TNFDの開示枠組みが定着し、ブルーボンドやJブルークレジットの市場が成熟していくこれからの時代、海洋保全にいち早くコミットする企業は、リスク耐性と成長性の両面で、資本市場から高いプレミアム(評価)を獲得することになるでしょう。
重要なのは、「制度が変わるから対応しなければならない」という受け身の姿勢から、「先に動いた企業が新たな市場のルールを創る」という攻めの視点への転換です。ブルーエコノミーはまだ黎明期にあります。制度や市場が急速に整備されつつある今こそ、海に向き合う戦略を自社の成長シナリオに組み込む絶好の機会です。
グリーンそしてさらにブルーへ。この転換・拡充は、単なる環境対応の枠を超えて、企業経営と資本市場の「評価の文法」を静かに、しかし確実に書き換えています。
【参考情報】
- TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)公式サイト:https://tnfd.global/
- Jブルークレジット®(ジャパンブルーエコノミー技術研究組合):https://www.blueeconomy.jp/credit/
- 環境省「TNFDイベント開催について」:https://www.env.go.jp/press/press_04827.html
- 日本郵船グループ TNFDレポート:https://www.nyk.com/news/2025/20250206_02.html
- マルハニチロ ブルーボンド発行:https://www.maruha-nichiro.co.jp/news_center/release/2022/20220929_01.html
- 商船三井 マングローブ保全プロジェクト:https://www.mol.co.jp/pr/2022/22062.html
- 世界銀行 ブルーエコノミー:https://www.worldbank.org/en/topic/oceans/brief/blue-economy
<関連記事>
◆「守る」から「取り戻す」SDGsへ。2030年のその先を見据えるキーワード『ネイチャーポジティブ』とは?
◆【開催レポート】人口減少時代を生きるシンポジウム ―― 「No Water, No 地方創生」が示す、水循環日本への新境地
【開催レポート】人口減少時代を生きるシンポジウム ―― 「No Water, No 地方創生」が示す、水循環日本への新境地
◆人と動物、そして地球の健康をつなぐ-獣医師が担う「ワンヘルス」とSDGs
◆世界を救う「ワンヘルス」の起点に―第41回世界獣医師会大会が東京で示す未来


