2026年4月21日(火)・東京国際フォーラムで開催された世界獣医師会大会。
世界中から獣医師が東京に集結するこの国際的なイベントのスポーツ分科会第1部では、Shigekix氏と髙木菜那氏が、道具・身体・集中力について語り合いました。対照的な2人の言葉から、自らの身体という「内なる自然」と、環境という「外なる世界」を調和させることの重要性が浮かび上がりました。
第2部では、ここに新たな2人が加わります。国際体操連盟会長・IOC委員の渡辺守成氏、そして赤坂動物病院院長の柴内晶子氏。スポーツと動物医療という異なるフィールドを生きる2人が、「人と動物がともに健康に生きる社会」というワンヘルスの核心へと、対話を深めていきました。
モデレーター/山本浩氏(法政大学名誉教授)
「集中できなければ、死んでしまう」――バイルス選手が変えたスポーツ界の常識
山本氏: 緊張というのは、見ている側、応援している側にかえって高いものかもしれません。しかしその緊張がうまくコントロールできないと、逆にいいパフォーマンスにもつながらない。よくスポーツの現場で選手が言うのは、「コーチから『集中しろ』と言われても、私は集中してるんですけど、という感覚がいちばん嫌だ」ということです。外から見る場合と中から見る場合で、少し齟齬がある。それがスポーツの現実かもしれません。
渡辺氏: 最近はメンタルヘルスという言葉をよく聞きますが、スポーツ界でそれが最初に大きく取り上げられたのが、2020年の東京オリンピックのときでした。女子体操の世界チャンピオン、シモーネ・バイルス選手が「出場できない」と表明したんです。理由は「集中できないから、演技ができない」と。
渡辺氏: IOCのバッハ会長が私のところに来て、「渡辺、メンタルヘルスってなんなんだ」と。「集中して演技ができないらしいんですわ」と伝えると、「このオリンピックの場でそんなこと言われても困る。なんとか出せ」と言うんです。
しかし、渡辺氏は首を縦に振れませんでした。
渡辺氏: フェンシングは地上に足がついてるからいいですが、体操の場合は地上が足につきません。集中できなかったら死んでしまいます。それは無理やりできないですよ、と。「いや、俺が説得すればなんとかなる」とバッハ会長は言うので、二人で説得しに行ったんですけど……バイルス選手の顔を見た途端に、「大丈夫だよ」と言っただけでした(笑)。
最終的にバイルス選手はいくつかの種目のみに出場し、金メダルを獲得しました。そしてこの出来事は、スポーツ界全体に大きな問いを残しました。「強くて当たり前」という前提が、本当に正しいのか、と。
渡辺氏: バイルスが勇気を持って「自分は弱い」とはっきり表明して、それに向き合っていった。一つのロールモデルを作ってくれた。今それが世界に広まっているのが、スポーツ界の現状ですね。
Q1. 試合前に犬と過ごす——セラピー犬という”公式チームメンバー”
この経験を機に、国際体操連盟はメディカル委員会の中に「フィジカル」「メディカル」「メンタル」の三部門を設け、選手の心身を包括的にサポートする体制へと動き出しました。そして生まれた取り組みのひとつが「ドッグセラピー」です。
スクリーンに映し出されたのは、試合前の選手たちがセラピー犬のもとへ集まり、表情をほころばせる映像でした。
渡辺氏: アメリカの体操大会では、子どもたちが試合に行く前にドッグセラピーのところへ行って、心を休めるんです。金メダリストのシニサ・リー選手も、いつも試合前にここへ来て大会に臨みます。
セラピー犬「ビーコン」は、正式なアクレディテーションカード(※)を持つ公認セラピスト。もはやチームの一員です。
※)大規模イベントで関係者(選手、スタッフ、メディア等)に発行される、本人確認とエリアへの入場許可を兼ねたIDカードのこと。
山本氏: 体操の場合は、始まる前の緊張の密度が、他の競技とちょっと違うレベルにある気がするんですが。
渡辺氏: まったくそうです。空中で演技しますんで、ちょっとした感覚のずれが、最悪のケースになることもある。だからこそ、どれだけ緊張を和らげてあげるかが大きなテーマです。一昔前はちょっと考えられなかったですけどね。
現在、国際体操連盟が主導する大会の約30%にドッグセラピーが導入されており、フィギュアスケートなど他競技にも広がりを見せています。
Q2.「やっと、そういう時代が来た」——獣医師が見てきたワンヘルスの夜明け
柴内氏: 人の生活のそばに動物がいることで、人は地球のことも、人のことも、動物のことも自然と考えるようになる。その三つの健全がひとつであるというのが、ワンヘルスという考え方だと思います。獣医師として働く上では、それはとても自然な感情のひとつでした。
長年「ヒューマンアニマルボンド(人と動物の絆)」を診療の礎としてきた柴内氏にとって、WHOがワンヘルスを正式に採択したことは、感慨深い出来事でした。
柴内氏: やっと、人と動物と地球環境の三つをつないで考えてもらえる時代が来たな、と思いました。
スクリーンには、6歳の男の子と並んで笑顔を見せる90歳の女性の写真が映し出されました。
柴内氏: 隣にいるのは、日本でアニマルセラピーの草分けとして活躍した、私の母です。今も存命で90歳です。動物とともにいてうれしいと思う気持ち、ともに幸せになれるという思いを持つことに、年齢は関係ないのかなと思っています。さっきShigekixさんが「60歳でも16歳でもブレイキンを始めたときがそのとき」とおっしゃっていましたが、それと重なりますね。
柴内氏はまた、1986年から公益社団法人日本動物病院協会(JAHA)のCAPP活動(アニマルセラピー)にも携わり、病院・学校・高齢者施設へセラピー動物を連れた訪問活動を続けてきました。今年は代々木のオリンピックセンターでも活動を行い、1000人以上の家族と子どもたちがセラピー犬と触れ合いました。
柴内氏: 適性のある動物をつれていくことがとても大切です。今は動物愛護から福祉の時代にシフトしています。活動の現場でストレスを感じにくい子、人と暮らすことが無理のない範囲の動物たちを選んでいます。犬だけでなく、猫や鳥、小動物が行く場合もございます。
Q3.「動物のそばにいると、アスリートも人間に戻れる」
山本氏: 柴内先生、外来に来るペットの飼い主の中に、スポーツに関わる方もいらっしゃるかと思いますが、何かお聞きになったことはありますか。
柴内氏: どういう方かはお話しにくいのですが、アスリートにとって伴侶動物がとても大きなウェイトを占めているということは明らかだと思います。ご自身を律して臨まなければならない場面が多い中で、動物と過ごす時間がその方にとっての幸せのひとつを担っている——そういうお話は、実際によくお聞きします。ほんとうに、エモーショナルサポートドッグというか、その人の心を支えているんだなと思う瞬間に、よく遭遇します。
渡辺氏: やっぱり人間ですからね。強くて当たり前じゃないんですよ。
Q4. 食・睡眠・リズム――人と動物が「教え合う」日常
対話はさらに、「食」と「睡眠」というテーマへと広がりました。
山本氏: 体操の選手の場合、エネルギーをたくさん使う一方で、体型管理も必要ですよね。食についてはどのように取り組んでいるんですか。
渡辺氏: 一昔前は、とにかく食べないで痩せるというのが当たり前だったんですが、今は全然違います。食べながら、自分の体型をしっかりコントロールしていく。そしてペットを飼っていると、ペットの健康も自分の健康も自然と一緒に考えるようになりますんでね。
山本氏: 柴内先生、ペットフードへのこだわりを持つ飼い主の方もいらっしゃいますよね。
柴内氏: はい。手作りで作る場合は栄養学をある程度知っておく必要がありますし、処方食が必要な場面もあります。ただ、食を通じて飼い主さん自身の生活も変わるということがあって。一人暮らしの高齢の方が動物と暮らしていると、「ワンちゃんにご飯をあげなきゃ」と思うから朝早く起きる。動物のために健康でいなきゃ、と思うことで、自分の食事も生活のリズムも整っていく。動物が目覚まし時計になってくれるんですよね。
続いて「睡眠」の話になると、渡辺氏はこう語りました。
渡辺氏: 科学的に証明されていますので、今のトップ選手はみんなウェアラブルデバイスをつけて睡眠時間をしっかりコントロールします。特に時差がありますので、その管理は綿密に行っています。
山本氏: 動物の睡眠については、柴内先生、いかがですか。
柴内氏: 年齢や健康状態によって違いますし、人と暮らしている伴侶動物は、その人間の生活リズムにもだいぶ影響を受けますね。
山本氏: ということは、動物に教えられることもあれば、動物が自然と人のリズムに合わせることもある?
柴内氏: お互いのリズムを、それぞれで影響し合うということはあると思います。
データが示す「犬との暮らし」の力、そして社会へ
人と動物の共生は、感情的な絆だけではなく、科学的なデータによっても裏付けられています。
柴内氏: 1980年代のアメリカの研究で、心臓発作後の患者のうち、動物と暮らしている方のほうが有意に長生きだったというデータがすでに出ていました。日本でも、国立環境研究所の谷口雄先生の研究で、犬と暮らし、お散歩をし、社会的なつながりを保っている高齢者は、認知症の発症リスクが40%減って、介護保険料も40%削減されるという結果が報告されています。
この数字を受けて、渡辺氏が続けました。
渡辺氏: 国際体操連盟はWHOと協力して、168か国で高齢化社会対策を始めたんです。目的は健康寿命を延ばすことだけじゃなくて、社会保障費がどれだけ削減できるかを実証していくこと。その中で、やはりペットとの共生が一つのテーマになっていて。獣医の皆さんともぜひ協力して、サステナブルな社会をつくっていきたいと思っています。
セッションを終えて
「食」「睡眠」「メンタルヘルス」「動物との共生」——一見バラバラに見えるテーマが、この第2部のセッションでは一本の糸でつながりました。
試合前の緊張を犬が和らげ、高齢者の生活リズムを動物が整え、認知症リスクを散歩が下げ、社会保障費の削減につながっていく。渡辺氏が「スポーツ界×ワンヘルス」の実践者として、柴内氏が「動物医療×日常」の体現者として、それぞれの現場から紡ぎ出した言葉は、同じ方向を向いていました。
「やっと、人と動物と地球環境の三つをつないで考えてもらえる時代が来た」と語った柴内氏の言葉と、「獣医の皆さんとともに、サステナブルな社会をつくっていきたい」という渡辺氏の言葉。ワンヘルスは理念ではなく、すでにスポーツの現場で、診察室で、地域の高齢者施設で、動き始めています。
◆第41回世界獣医師会大会2026 公式サイト
本記事はSDGs JAPANポータルサイト編集部が取材・構成しました。
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